猪木は、「プロレスこそ世界最強の格闘技である」と語った。
 極真会館もまた、極真空手こそ「最強」だと、掲げていた。
 最強を名乗る者同士、衝突を避けては通れなかった。

 猪木vsウィリー戦は、
’70年代の格闘技界の集大成であり、それを象徴する試合であった。

極真空手と新日本プロレス

 ’71年。漫画「空手バカ一代」の連載が「週刊少年マガジン」で始まった。

 ’72年。アントニオ猪木は、新日本プロレスを旗揚げした。

 同年。極真会館主催の全日本大会。
 参加者を募るポスターには、こう記されていた。
 「空手のみならず、プロレスはじめ、あらゆる格闘技の挑戦を受ける」と。

 激怒した新日の新間寿は、猪木を始めとする所属レスラーの参加を表明した。
 だがオープントーナメントとはいえ、ルールは空手である。
 猪木が大会に出場することは、なかった。

地上最強のカラテ

 ’76年2月。猪木は初の異種格闘技戦を行った。
 相手は、’72年のミュンヘンオリンピック柔道二冠、“赤鬼”ウィレム・ルスカだった。
 猪木はルスカを、バックドロップ3連発でKOした。

 同年5月。映画「地上最強のカラテ」が公開された。
 前年11月に開催された、極真の第1回世界大会の模様が記録されていた。
 ちなみに7月。映画「グリズリー」も公開された(笑)。

 同年6月。猪木は、モハメド・アリとの対戦が決定していた。
 猪木は梶原一騎を介して極真本部道場を訪れ、空手の技を特訓した。
 そこで生まれたのが、アリ・キックだった。

地上最強のカラテPART2

 ’76年12月。映画「地上最強のカラテPART2」が公開された。
 この映画により、ウィリーの存在は格闘技ファンの間に一斉に広まった。

 ウィリーの師匠が、大山茂である!
 当時、世界数百万の門弟がいる極真空手の、世界最高師範だ。
 「空手バカ一代」にも登場し、香港カンフー李門下の師範代、陳を倒している(笑)。

 単身ニューヨークに渡り、州一帯に極真の道場を築いた。凄い!
 私は後年、著書「ザ・ストロングマン」を読んだ。
 大山茂また、私が心酔してやまない、空手家の一人となった。

 映画の中で、最も高度な型と言われる「ツーシボ」を披露している。
 素晴らしいなあ。惚れ惚れする。カッコいい!

 この二人。地上最強の師匠と弟子だろ(笑)。
 まさに映画のような師弟関係。画になるなー。
 師弟は打倒猪木を想定し、過酷な修行に日々身を投じた。

 その修行の究極が、熊との対決だった。
 え? 熊!? 誰もが耳を疑った。
 身長2メートル45センチ。体重は300キロ以上!
 あの、グリズリーだ!

 後年、私もそのシーンを観た。
 感想は、言わずもがな、である(笑)。
 でも凄い、よくやったよ。熊はまさしく本物だ。デカい!

 人間は大自然には勝てない。
 心優しいウィリーに、動物は殺せない。
 終始聞こえる熊の悲し気な咆哮が、胸を絞めつける。

異種格闘技戦

 猪木は、アリ戦の後も異種格闘技戦を続けた。
 異種格闘技戦は、「格闘技世界一決定戦」として行われていた。

 ’77年8月。猪木はザ・モンスターマンと対戦した。
 モンスターマンは、全米プロ空手のヘビー級王者であった。
 「プロ空手」。それが極真の癇に障った。

 猪木はギロチンドロップで、モンスターマンをKOした。
 翌年4月。猪木は、同じく全米プロ空手のザ・ランバージャックを倒した。
 勝利者である猪木は「格闘技世界一」を名乗った。

 逆鱗に触れた。もはや黙って見過ごすことは、できなかった。
 ’78年春。極真は猪木対し、ウィリー・ウィリアムスの挑戦を正式に表明した。

ウィリー・ウィリアムス

 名前の響きがいい。フルネームでもファーストネームだけでも。
 疾走感がある。底から湧き立つ、強さを感じる。

 身長196センチ。約2メートルだ!
 馬場より低いが、猪木よりデカい。
 2メートルの空手家。それだけで脅威だ。

 熊殺し!! これほどインパクトのある異名、他にないだろ。
 ウィリーはマタギではない、空手家なのだ(笑)。
 熊殺し! ファンの脳裏にウィリーの名は深く刻まれていた。

四角いジャングル

 ’78年11月2日。猪木はウィリーの挑戦を受けると正式に発表した。

 17日。新日が開催するプレ日本選手権の前夜祭。
 並み居るプロレスラーが集う会場に、大山茂が乗り込んだ!
 すげー。さすがだ。

 大山茂は断言した。
 「もしウィリーが負けたら、私は腹を切る」と。

 ウィリーは、大山茂の師である黒崎健時の下で特訓を積んだ。
 黒崎健時! 生きる伝説だよ。怖い!(笑)
 この二人に鍛えられたら、そりゃあ否応なく、強くなるよ。

 ’79年8月27日。猪木VSウィリー戦の正式発表記者会見が開かれた。
 この前日が、あの「プロレス 夢のオールスター戦」だった!
 猪木は馬場と8年ぶりにBI砲を復活させ、ブッチャー、シン組と闘っていた。

 再三延期していた試合は、翌’80年、2月27日に決定した。

極真第2回世界大会

 熊とは闘った。だが、人間相手の実戦はどうか? ウィリーの真の実力は?
 ’79年11月、極真の第2回世界大会が開催された。
 なんとウィリーは大会に出場し、ファンの前に現れた!

 ウィリーの強さは、異次元だった。
 対戦相手は皆、ウィリーを前に恐れおののいた。
 それこそ、熊を目の前にしたかのように。

 黒い魔人。闘神であった。
 眼にしたファンはその強さに驚愕し、震えた。
 ウィリーは己の力の半分も、出していないように見えた。

 準々決勝。ウィリーの怒涛の攻撃に、会場は戦慄した。
 「秋田の佐藤俊和は、突きと蹴りのラッシュを浴びて内臓破裂を起こし
断末魔の苦しみの中、慶応病院へ運び込まれた。」

 延長戦での正拳突き。もう誰にも止められないよ。凄い!
 だが決して床に膝をつかなかった、佐藤俊和も凄かった。
 さすが、第8回全日本王者だった。

 準決勝。ウィリーは突如暴走し、まさかの反則負け。
 その真相は、言わずもがな、である(笑)。

 ウィリーはまさしく、「巨大な人間凶器」であった。

1980年

 昭和55年。’80年代が幕を開けた。

 1月17日。ウィリーが来日した。
 ウィリーは極真から破門され、大山茂は禁足処分となっていた。
 映画「最強最後のカラテ」のプロモーションの後、
ウィリーはバンコクに飛び、最終調整を兼ね、ムエタイの特訓を行った。

 2月8日。猪木は東京体育館で、スタン・ハンセンと戦っていた。
 客席ではなんと、ウィリーがこの試合を観ていた!
 猪木はエプロンでハンセンのラリアットを食らい、リングアウト負けをした。
 ウィリーに負けず劣らず。この時のラリアット。もの凄いよ。

公開スパーリング

 2月10日。後楽園ホールで、猪木、ウィリー両者の公開練習が行われた。
 そこで、事件は起こった!

 リングでの練習後、猪木がマイクを掴み、言った。
 「私の相手のウィリーさんが、残念ながらスパーリングパートナーがいないということなので、
私が今日はスパーリングパートナーをこれからつとめようと思います!」と。

 アリ戦の公開スパの時と、まったく同じ展開だ(笑)。
 挑発にのったウィリーは、猪木に駆け寄り、詰め寄った。
 一触即発だった。会場のファンの歓声が、2人を煽った。

 大山茂がウィリーを制し、間に入った。
 猪木とウィリーは握手を交わした。事なきを得た。

 う~ん。もしここで、大山茂が一発! 猪木にくらわせたら!
 その時はまた、歴史が変わっただろう(笑)。
 いや~、すんげえ、緊張感だった。

調印式

 2月26日試合前日。調印式の場で、ルールが発表された。
 寝技は5秒以内。ウィリーは、8オンスのグローブを着用することになった。
 のちのドラゴンの名言、「我々は殺し合いをしてるんじゃない」、という事だ(笑)。

 だがファンの胸の内は違った。
 この試合は殺し合いになる! と誰もが思っていた。
 勝負の決着を、誰もが望んでいた。
 そのためには、殺し合いも辞さない、と考えていた。

 日本中を、言い知れない殺気が包んだ。

 いよいよ新日と極真が決着をつける、世紀の一日が訪れようとしていた。